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【1950~現在】大阪の女装文化近現代史。スナック唄子・女装ルーム同時6店舗時代・新世界難波梅田分断等



大阪の女装カルチャー・女装文化の歴史をここにまとめました。
1950年代から始まる大阪の女装近現代史です。

クリハラチアキ
テストに出るよ!(出ません)

年代別では「なつかしいな~」と思う方もいれば、
「え!?そんなに昔からったの!?」と驚かれる方もいらっしゃるかと思います。
現在ほど多様化した女装の大阪におけるルーツを読めば、きっと今を感謝できるかもしれない!
ワクワクが止まらないかもしれないよ!

【原点】1950-1960年:大阪女装業界の元祖「スナック唄子」「新世界国際劇場」開業

1950年代にはじまる現在の大阪の女装カルチャーの原点から迫っていきます。

阿倍野のセクマイ文化、女装スナックの原点

戦後、1950年代に大阪女装業界初の女装スナック「スナック唄子」が大阪市阿倍野区で創業されました。
阿倍野区旭町は「男娼の街」として、ゲイタウンとして戦前、戦後と盛り上がりをみせていました。
そこには、女装をして男性の相手をする「女装娼婦」もいたといいます。

ゲイタウンと女装コミュニティスポットは、性格こそ違うものの、同じセクシャルマイノリティとして
大阪の女装文化史を語る上で切り離せない関係です。

阿倍野区にセクシャルマイノリティコミュニティスポットがあったため、スナック唄子は、阿倍野区で創業されたと思います。(推定)
当時は純女さんや純男さん数名での接客だったらしく、そこに女装子さんが通うスナックというスタイルだったそうです。
その後、スナック唄子は1980年代の閉店まで複数回移転を繰り返しましたが、主には大阪ミナミでの営業でした。

1950年代といえば、左翼の学生運動に火がつきはじめている頃で、若者の反権威主義は政府やイデオロギーに向かっている時代でした。
今のように自己実現や、性別2分という社会などには向かっていませんでした。
このように女装が逆風の時代に、セクシャルマイノリティが世間で一般的ではない時代に、
「女装者のお店を創る」というのがいかに困難で、偉大なことであったかということは、
おそらくその時代を生きている人じゃないと実感できないと思います。
スナック唄子は女装子さんにとっての憩いのスポットであり、大阪女装界の「パイオニア」でした。
この大阪ミナミスナック唄子から、キタのほうへ女装コミュニティスポットが伝播していきます。

 

新世界国際劇場の開館

新世界国際劇場

出典元

新世界も実はゲイタウンとして盛んで、同じく女装コミュニティスポットもここで発展していきました。
多くの成人映画館が乱立し、さらには新世界の隣の西成あいりん地区の釜ヶ崎暴動などによりノンケや一般人が新世界=危険地帯という認識であまり近寄りませんでした。
なので、まだまだ「女装=アンダーグランド・おかしな趣味」と思われていた時代背景の中で、女装コミュニティスポットの盛り上がりが新世界で加速し、多くの女装人が新世界に集まったといいます。
1950年代になり、今や日本全国にその名を轟かせている女装界の映画館のメッカ「新世界国際劇場」もオープンし、新世界でも女装コミュニティスポットが発展していきました。

1961年釜ヶ崎暴動の様子

 

1970-1980年代:女装フラット化の芽が次々に芽生えた時代

1970~1980年代は私たちが今当たり前のように享受している「女装文化とフラット化」の
芽が芽生えた時期です。
まだ女装に対する差別が激しい中で、まるで未来という太陽に向かって強くまっすぐに伸びていく
大木のように、数々の女装カルチャーが芽生えます。

1971年久宝寺緑地公園の開園

久宝寺公園開園時の全盛期のプールの来場者の風景

西日本の女装のメッカ久宝寺緑地公園が1971年に開園します。
まだ久宝寺緑地公園が開園していない1969年の貴重な画像が↓

久宝寺緑地公園建設予定地の航空画像
出典元:http://www.osaka-park.or.jp/archives/archives.php?p=0&c=1

 

まさかここが後の西日本女装業界のメッカになるとは。。。
神様さえも予想していなかったでしょう。笑

久宝寺緑地公園は戦時中の防空地として設けられた場所です。
それが今では、女装人の日常の喧騒から離れる防空地になっています。(うまくない)

女装業界人が久宝寺緑地公園に集まりだしたのは、1970年後半頃になってからといいます。
今では日本のニューハーフ界の最高の成功者ともいえる、大阪東住吉出身、まだ無名時代のはるな愛さんもこの公園でおしゃべりしていたと言います。

女装業界の革命児 エリザベスの大阪進出

今はすでに閉店している「エリザベス大阪」

1979年に東京にて、日本初の女装子さん向けサロン、「エリザベス」がオープンしました。
現在の大阪パレットハウス、東京クロスドレッサーなどの「女装サロン」の原型を作ったのがエリザベスです。
まさに女装界の革命児です。

そのエリザベスが1983年に大阪に進出してきました。
当時は女装サロンという言い方は一般的ではなく、「女装クラブ」と呼ばれていました。
大阪女装業界といえば、1960年代よりゲイのコミュニティスポットの近くで「アンダーグラウンド的に」発展してきました。
とくに新世界はその象徴でした。

しかし、このエリザベスの登場によって、
「女装はアンダーグラウンドなものではなくもっと明るくて、もっと気軽に楽しめるものだ」という風潮が芽生えはじめます。

エリザベスの登場により、女装子さんのパイが格段に広がりました。
男性との性行為やアングラを楽しむ女装子さんだけでなく、洋服を着るだけ、女装子さんと仲良くしたいだけ、
という今でいうコスプレイヤーや男の娘という女装の可能性を広げたのです。
エリザベスの出現の後、1990年代になり、新大阪西中島に現在も存在する「パレットハウス」が登場し、その後は大阪十三に現在も存在する「スタジオスイッチ」が誕生しました。

新世界エリアでは女装娼婦が全盛期を迎える

同時期1970年―1980年代には、大阪・新世界エリアの風紀の乱れが最も大きくなっていました。
おそらく、今の新世界しか知らない層にとっては、想像もできないでしょう・・・
本当に、汚くて、危ない街でした。

1970年の大阪万博開催に向け、1960年代にインフラ設備建設ラッシュで、全国から労働者が集まった結果、
1970年代には新世界は完全に「労働者の町」と化していました。
その影響で、家族連れや若者はミナミやキタに流れ、新世界の風紀は乱れました。

薬物販売が蔓延し、街頭娼婦が町に立ち、労働者たちを顧客に性風俗サービスを行っていました。
阿倍野区でゲイタウンの中で細々と女装娼婦として商売をしていた方々も、
続々と新世界エリアに流れ、街頭娼婦として商売をしていました。

一心寺周辺や天王寺の丸い広場周辺で女装娼婦さんが商売を本格化させました。
このころから、新世界を中心とする女装コミュニティスポットはアングラ化を加速させ、さらにディープ色を強めていきます。

 

女装文化のキタとミナミの分断が進む

この1970年―1980年頃に大阪の女装業界はキタとミナミでカルチャーが分断しました。
キタでは、エリザベスやロマンなどの、コミュニケーションスペースとしての女装コミュニティスポットが興隆。
ミナミでは、新世界を中心にアングラ色の強い女装コミュニティスポットが興隆しました。
キタはよりポップな女装カルチャーが、ミナミはよりディープな女装カルチャーが発展していきました。
それが後の1990年代の女装の南北分断、キタの女装スナック、ルームの発達などにつながっていきます。

 

1990年代:女装系のお店が一気に拡大。アングラな女装カルチャーが水面下で大きく広がりを見せた

1990年代は、女装文化史における革命前夜のような年代です。
地下でふつふつと確実にパワーをためているマグマのように。
2000年代以降の女装のフラット化時代が火山の噴火とすれば、
その準備がふつふつと行われているかのように。
地下カルチャーとしての大阪の女装文化が拡大した年代です。

キタに女装コミュニティスポットが続々と誕生

大阪のキタ、梅田神山、十三では、ゲイエリアを中心に、次々と女装コミュニティスポットが誕生しました。
80年代までの公園、女装サロンで女装をするところから、90年代は女装業界人が集うBARやスナックが興隆していきました。

一方で、梅田エリアにも「ミステリースポット」「トークばら」「ロマン」、
十三では「Rougeルージュ」、梅田神山では北野洋子さんの「贋作淑女」がオープン。
「今、大阪が熱い」ということで、全国各地から女装業界人が梅田のキタに集まりました。
この頃からますます「キタとミナミの女装文化の分断」が進みます。

この頃に生まれたお店は、今でも続く老舗になっているお店が多いです。

ミナミとキタの分断

ミナミでは、新世界の映画館、一心寺、天王寺のホテル街、
うつぼ公園や、久宝寺緑地公園などを中心に女装界が盛り上がりました。
いわゆる公共施設や複数が出入りする可能性のある場所で低コストでも遊べるコミュニティがはってんました。

一方、キタでは、スナックやBAR、ルームで盛り上がりました。
いわゆる個人店舗やマンションの一室など、コストをかけて楽しむコミュニティが発展しました。

分断されたといえども、何か争いがあったわけではありません。
単に女装人のニーズによって、場所が別れたというだけです。

出会い目的や一夜限り、あるいは低コストで女装を楽しみたい!というニーズを持った方がミナミへ。
女装をしてお店に行きたい、クローズドな環境下でしか女装ができない、女装に遊びのお金を使える、などのニーズを持った方がキタへ。
それぞれ移動したのです。

中には、キタで遊んだあとミナミへ、ミナミで遊んだあとキタへ、というようにキタミナミをクロスユースする方もいました。
また、ミナミにも梅田ローズ劇場や、天六劇場などが存在(両方閉館済み)し、低コストで遊べるコミュニティスポットも存在していました。

パソコン通信の登場と、女装界のオープン化「女装業界の掲示板群の祖” EON/W“の登場」大阪の女装スポットの情報が流通する。

1990年代になり、パソコン通信が登場し、女装界にも変革の時が訪れます。
(パソコン通信の登場は、大阪に限定したお話ではないですが、
これをきっかけに2000年代の大阪での女装ルームの交流につながったので因果関係があるのです。)

現在では当たり前になっている出会い・コミュニティ掲示板の登場です。
1990年に女装界に先進的に掲示板群をとりいれたのは哲学者神名龍子先生です。

EON/Wという会員制の掲示板サイトを立ち上げ、中では1000名以上の会員が集まり、
全国津々浦々の女装業界人同士でコミュニケーションをとっていました。

今でこそ、レンタル掲示板などが個人でも簡単に作成できる時代ですが、
当時掲示板を作成するにはかなりの専門的知識とコストが必要で、誰もが作成できるようなものではありませんでした。
この掲示板群の登場をきっかけに、室内女装子さんや遠方の女装子さんにも女装界の情報がいちはやく伝わるようになり、数々の女装子さんを誕生させました。
そういった意味で、EON/Wは非常に先進的で、女装界にとって革命的なものだったと言えます。
「女装ワールド」も女装サイトの1つですが、その大先輩というわけです。

2000年に近くづくにつれ、専門的な知識や資金がなくても個人が用意に掲示板サイトやウェブサイトを立ち上げられる環境が整うようになります。
それにより、今までアンダーグラウンドであった女装界に関する情報がインターネット上に増え始め、
ノンケや業界初心者にも女装業界に関する情報のアクセサビリティ(到達可能性)が大幅に上がりました。

女装界に関する情報がオープン化していきます。
それにより、世間の人々の潜在的な女装欲求や女装業界への欲求が顕在化していきます。
すなはち、「へぇ、こんな世界があったんだ、いってみたいな」とか
「今まで室内だけでひっそりと女装をしていたけれど、女装界という社会に一度溶け込んでみたいな」
こういった、今まで女装界にはいなかったけれど、女装界に足を踏み入れる人たちが、情報のアクセサビリティの上昇により、
女装界に出入りするようになりはじめます。
大阪の女装界の情報が流通しはじめたことで、アングラな女装カルチャーが一気に業界内で共有されはじめます。

女装界の人数のパイ(分母)が広がりはじめたのです。
女装人が増えたことで、女装グッズの販売や、コミュニティスポット、サロンなどの需要も当然増えます。
そこで女装界に何か価値を提供するサプライヤー(価値やコンテンツを提供する人)が増え始めます。

これは大阪に限った話ではないので、大阪に限った話をすれば、その影響で、
2000年代のパンドラ、ゴシップ、京橋アヴェニューなどの女装ルームの興隆へとつながっていきます。

クリハラチアキ
・キタでは引き続きBAR、サロンなどの女装コミュニティスポットが拡大
・ミナミでは映画館や公園などの女装コミュニティスポットが拡大
・キタミナミの女装コミュニティスポットの性格による分断
・パソコン通信の登場による女装界の情報のオープン化
・女装人の数が増え始める

 

2000-2010年:女装コアカルチャーの成熟期を迎える。女装ルーム全盛時代

2000年代はアングラなコアな女装カルチャー・女装遊び文化の成熟期を迎えます。
2010年代以降の「女装のフラット化」時代の前夜的年代になります。

大阪に女装ルームが次々に誕生

2000年代になり、女装業界の情報がオープン化し、女装界に関する情報の人々のアクセサビリティが上がりました。
これまで部屋でしか女装をしなかった室内女装子さんや、女装界の存在をはじめて知り女装界に興味を持ち始めた
それまでの潜在的女装人が次々に、女装界に参入してきました。

それにより女装コミュニティに対する需要が供給を上回り、次々に女装コミュニティスポットが誕生しました。
中でも十三で今でも営業をするルージュの姉妹店であった十三「パンドラ」を皮切りに、
マンション店舗型の「女装ルーム」が次々に誕生します。

パンドラの系譜をつぐ新大阪に「ゴシップ」(現Gふらっと)がオープン。
梅田には「ゲストルーム315」(※すでに閉店)
さらには京橋で「アベニュー」(※すでに閉店)
日本橋では「小悪魔」
新世界では「アヴァン」(※すでに閉店)が誕生しました。

当時の京橋アヴェニューのHP

2000年代の同時期に、すでに営業していた「トークばら」をあわせても、
同時に6つもの女装ルームが営業していたことになります。

東京よりも人口が2分の1であるのにもかかわらず、東京では女装ルームがラフレシア、中野CKM、湯島810の3つほどしかなかったのにもかかわらず、
大阪ではここまでの数の女装ルームが発展したのです。
そういう点では、女装ルームは大阪発大阪女装界の生み出した女装文化とも言えるでしょう。

当時の難波アヴァンのHP

大阪での女装ルームの興隆は「女装ルームがスナックほど高くはなく、ゆったりとまったりと女装業界で過ごせる」という価値を提供が、女装人のニーズにマッチしたからです。
元々ボケやツッコミなどの文化があり、他人にも気軽に話しかけるような文化があり、
「これなんぼなん?」と値切ったりいいものを安く手に入れようとする文化が
この女装ルームの「スナックよりも安く、まったりと過ごせる」という価値にマッチングしたのです。

このような女装ルームの登場により、世間では全く知らないもの同士が、女装界で知り合いになり人間関係を形成する機会が多くなりました。

 

女装専SNS「T'sLOVE」の登場

まだ招待制でなかった頃のTsLOVE

2006年頃、女装SNST’sLOVEが登場しました。
当時はまだFacebookもなく、mixiが登場しはじめた頃です。
当時はmixiに登録する女装人は少なかったですが、
「女装・ニューハーフ専門SNS」としてのT’sLOVEが提供する価値に、数多くの女装人が登録しはじめました。

今でこそ、T’sLOVEはT’sLOVEをすでに利用している方から招待を受けないと入会できない招待制SNSですが、
2006年当時はまだオープンSNSで、誰でも登録できました。
T’sLOVEの噂は瞬く間に女装界に広がり、女装界のソーシャル化が加速しました。

女装専SNS・T's LOVE【tsloveティーズラブ】はオワコンなのか?女装SNS変遷の歴史とこれから

女装専SNSのT'sLOVE(ティーズラブ・ティーズ)という希代の人気SNSがあります。 女装界に12年来にわたって主要 ...

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「集客型女装イベント」の開始と大阪発・女装子同士の大型グループ「女装組合」の結成

そんな中、大阪の仲のいい女装子さん同士が「全国女装娘協同組合(※現在は活動していない)」というグループを組閣します。

女装趣味の中で、「女装の軍団を形成する」ということは、
「いかに女装文化が広がっているか、女装界の人口のパイが増加しているか」ということを示すものとなります。

2008年、新大阪西中島で第1回カマコレの開催をしました。女装イベントの走りです。
今でこそ、女装イベントは「当たり前のように」開催されていますが、
アンダーグラウンドな女装趣味の世界において「何百人も動員するイベントを開催する」という
試みは、当時の女装界にとっては非常にエポックメイキングでした。

女装イベントの走りとなった「カマコレ」

その後、カマコレは2009年、2010年・・・と毎年開催されるようになりました。
このカマコレ開催が、のちのOSAKA BIGBANG(大阪ビッグバン)プレシャスナイト(大阪南森町)などの大阪女装イベント開催の下地に
なった一面はあると思います。

これまでお店単位や公園単位でイベントをするということはあっても、大々的にイベントスペースを借りての女装イベントはほとんどなく、
第1回カマコレが大阪の女装イベントの文化を造成したといっても過言ではありません。

今では、SNSの利用が進み、女装界隈の人々が集団になる必要性はなく、
個人単位や、小集団単位で行動する女装人が増えてきており、
女装組合の存在は、女装のフラット化とSNSの普及までの約5年間ほどに
「女装に理解があるもの同士がつながるリアルな場所」を提供したという意味で、
女装社会的には非常に大きな役割とはたしたと言えます。

女装業界のオープン化によるコミュニティスポットの多様化。女装のメインカルチャー化の萌芽。

90年代のパソコン通信の登場と、そこからのウェブサイトの普及により女装業界のオープン化が進む中、
SNSの発展や、掲示板群の発展により、女装界のオープン化がますます進みました。
それによりテレビや雑誌でも「女装」に関する話題が触れられるようになり、
女装人が女装界以外のノンケのお店にも出入りすることが増えました。

2000年代以前までの公園や映画館、一部のお店での女装コミュニティスポットが、
女装ルームの登場で、多様化しました。
女装人は遊びのの選択肢を、2000年代以前よりも格段に広げることになります。

2000年代以前までの中心女装コミュニティスポットであった大阪ミナミ新世界やキタの梅田、堂山は引き続き盛り上がりを見せつつも、
大阪ミナミ難波心斎橋でも千日前「味園ビル」を中心に女装コミュニティスポットが広がりを見せていきます。

クリハラチアキ
・2000年代になり、大阪に女装ルームが次々と誕生
・同時期に6店舗の女装ルームが存在するエリアは大阪だけでした。
・第1回カマコレの開催で女装イベントの文化が造成される
・女装コミュニティスポットの多様化★梅田、堂山、新世界に加え、新たに難波にも女装コミュニティスポットが形成されはじめた。

そして、2010年代になり、女装カルチャーがいよいよフラット化していきます。
アングラだった女装カルチャーがメインカルチャー化し、
アングラな層とメインカルチャー層が分離していく時代になります。
男の娘ブーム、twitterの女装SNS化などにより、大阪の女装文化はますます多様化・盛り上がりの様相を見せていきます。

続いては2010年以降の大阪の女装史です。

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