2010-2015年:女装のフラット化が進み、アングラカルチャー層とメインカルチャー層の分離が進む
2010年~2015年までの大阪の女装史をみていきます。
ちなみに、私クリハラはこの頃から女装界隈に顔を出すようになりましたね・・・
そう考えると、まだまだ私も新参者かもしれません(^_-)-☆
大阪女装界にダーツブーム到来。これが最後のアングラカルチャーとしての大阪女装史の最後のブームとなった。
日本でダーツブームが流行りだした2005年、それから遅れて2010年ほどから
大阪女装界でもダーツブームがミナミを中心に起こりました。
2009年頃に難波に誕生したBAR「ハイデンシーク」や新世界近くから日本橋北部に移動した「アヴァン」
にダーツマシーンが設置され、多くの女装人がダーツをプレイし始めました。
チェイサーさんの中には「もうおれは、ダーツの世界で生きる。チェイサーを辞める」と言った人まで
出てきます。(のちに彼はダーツに飽きて女装界に戻ってきました)
それほどに、空前のダーツブームが起こったのです!
ダーツは低コストで気軽に始めることが出来る上に、女装をした状態でノンケと同じブームで遊べるという価値から非常に人気となりました。
ダーツブーム以前までは、「キタで遊ぶ日はキタのコミュニティスポットで留まる」
「ミナミで遊ぶ日はミナミのコミュニティスポットで留まる」という遊び方をする人が多かったですが、
とくに難波のハイデンシークの登場により、ミナミのハイデンシークで遊んで、キタの神山で2件目以降に行く
というキタとミナミのクロスユースをする人も増えました。
しかしながら、ダーツブームが終息していくのにあわせて2013年初めには、
ダーツブームも女装界で落ち着き始め、これは完全に偶然かもしれませんが、
「ハイデンシーク」「アヴァン」の2店舗がほぼ同時期に閉店となり、ミナミの女装業界ダーツブー厶は終息しました。
しかし、この頃になると、女装のメインカルチャー化が進んできており、
「アングラカルチャーとしての女装界におけるメインストリーム的なトレンド」というものは、
今後大阪においては見られなくなっていきます。
アングラカルチャーのコンプラ化。大阪女装ルームの相次ぐ閉店。
2010年代をけん引した「女装のアングラカルチャー」のハブスポット「女装ルーム」
というモデルは、現在も営業している「トークばら」さんを源流とし、
大阪で2000年代前半には、
・ゲストルーム315(大阪キタ、梅田)
・トークばら(大阪キタ、梅田)
・新大阪ゴシップ(大阪キタ、新大阪)
・小悪魔(大阪ミナミ)
・京橋avenue(アヴェニュー)(大阪キタ京橋)
・アヴァン(大阪ミナミ)
の6店舗が同時に営業しているというほど非常に盛んでした。
しかしながら、女装ルームというモデルは、法的にはグレーゾーンとなる運営が多く、
利用客の性善説にもとづいた運営が主流でした。
(すなはち、利用客は基本的にはみな好ましい行動をするだろうという原則のもと。)
さらには、2010年代になり、女装ルームと同じようなマンション型店舗の
ノンケ世界の「SMルーム系」のお店が、法的整備の対象となり、一斉に摘発されました。
この頃から、「女装ルームも、そのうち法的整備の対象になるのではないか」という懸念が囁かれるようになりました。
また、女装ルームの運営は、女装人の負担を考え、低コストで運営されていることが多く、経営者の負担も大きなものでした。
このような様々な要因が重なり、女装ルームは2010年頃から衰退していきます。
アングラカルチャーだった女装がメインカルチャー化していく中で、
コンプライアンスの目がいよいよ入り込んできます。
2011年3月に京橋アヴァニューが閉店、2013年1月頃に日本橋アヴァンが閉店、
そして2015年4月には、ついに大阪女装ルームのトップ店舗であった新大阪ゴシップが閉店しました。
2010年には最大6店舗あった大阪女装ルームが、わずか4年の間でで3店舗にまで半減しています。
これは「女装ルームのモデル自体が崩壊した」というよりも、
「世間的にも法令遵守の必要性が高まってきているので、それに対応できなくなった女装ルームが閉店した」というほうが正しいでしょう。
女装のメインカルチャー化。大阪ミナミ・難波で「男の娘」カルチャーが勃興
大阪ミナミにおける第一次男の娘ブームの中心店でもあった「マッシュアップ」
※2015年に閉店。現在当時のママは大阪宗右衛門町で「闌(たけなわ)」のママをしている。
2013年のハイデンシーク閉店、ダーツブームの終息頃から、
大阪ミナミ難波では「男の娘」コミュニティが広がっていきます。
味園ビルを中心に、年齢20代という若い世代の女装子さんが集まるようになります。
かつては「誰にも言うことができないアングラカルチャー」だった女装が、
徐々にオーバーグラウンド化する「メインカルチャー」化していきます。
味園(みその)ビルは、元来キャバレー「ユニバース」が有名でしたが、
2F部分を安価な居抜き物件として提供することで、若い世代を中心にサブカル拠点として盛り上がりをみせていました。
そして、サブカルという多様性を許容する文化の中で、コスプレ的な意味合いの強い女装行為を行う方や、GIDさんが集まりました。
この頃から世間では、女装行為を行う若い世代の方を「男の娘」と呼ぶようになり、
若い世代集まっているミナミ難波エリアに、「男の娘」をコンセプトにした店舗が拡大していきました。
「男の娘喫茶もこまほ」や、「洋酒喫茶かんから」、
すでに東京で展開していた「女の子くらぶ」が大阪に進出してくるなど、
ハイデンシーク後のミナミは男の娘コミュニティスポット中心となります。
男の娘コミュニティスポットの特徴は、ノンケの方も比較的多く出入りするところです。
これまでの大阪の女装コミュニティスポットは、基本的には女装人中心のスポットでしたが、
この大阪ミナミ難波エリアの男の娘コミュニティスポットは
おもに、20代の女装業界人が多く出入りするという点で、ほかの大阪女装コミュニティスポットとは異なります。
ハイデンシークの頃にはキタとミナミをクロスユースしていた女装人も、
大阪ミナミ難波が男の娘コミュニティスポットになった後は、男の娘の世代とは年齢層が異なることなどから、ミナミでも難波エリアは利用しない方が増えました。
一方で、現在でも大阪キタ神山は女装業界の中心として、
大阪ミナミ新世界の新世界国際劇場周辺も賑わいをみせています。
女装スポットも、非常に多様化をみせるようになったのも、2015年頃からです。
2010年に入り、一気に女装文化がフラット化し、
・アングラカルチャー
・メインカルチャー
この2つの側面を持つ「一般でも公言できるような趣味」になっていったのです。
先人たちが作り上げてきた土壌の系譜があるから」という部分もあることを
私たちは忘れてはいけない。もちろんそれだけじゃないけどね!
別にリスペクトまではしなくてもいいけど、「先人たちは差別の激しい日本の中で、女装文化をリレーしてきたんだ」
という重みを、今の若い世代の女装さんたちが少しだけでも感じれくれたらうれしいです。
っつっても、私もかなり若い部類なんですけどね笑
引き続き、大阪の女装史を考察していきたいと思います。
気づいたことや足りない部分があればコメントをお待ちしております。
随時、考察の上、必要に応じて追記いたします。