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「私は女装子ではない/女装界隈の人ではない」等”カテゴライズ論争”は「記号と個人」を理解すれば終わる。誰も間違ってない。人に優しくなろう!



はい、こんにちは!今日は「記号と個人」について書いてみました!

Aさんがこう言いました。
「Bさんは女装子さんだよね」
するとBさんはこう言いました。
「私は女装子じゃない!ひどい!私は私だ・・・女装ではない・・・」

この手のカテゴライズ論争、もう見飽きました。
もう時代はとっくに進んでるのに。
これねどっちが悪いとかいいとかそういうのはないのですよ。
このあたりをこの記事ではかみ砕いて語っております♡

実はこの手の「カテゴライズ争い」はそれ「記号と個人」を理解すれば、
この世からなくなります♡そして、人に優しくなれます。

あなたの頭の中に新しいとらえ方をポンッ♪と付加してみてくださいね♡

記号と個人を理解すれば、割と少数派界隈にありがちな「小さないざこざ」も
なくなる魔法のフレームです♡記号と個人を理解して、人に優しくなってみよう!

「私は女装子ではありません」は正しさと誤りが同居している。記号と個人を理解して、人に優しくなろう!

ジェンダーも、年代も、名前すらもフラット化する
世界の最先端を、ちょっと先の未来を、すでに生きる女装人だからこそ持ちたい「人に優しくなる」カテゴライズフレーム記号と個人。

争いで1つの価値を、多数派の価値を絶対視する時代はとっくに終わっている。
今後、個人の表現する価値を、個人の世界同士で表現しあい共鳴しあう時代になってくるのだ!

そこに必要なのは、「違い」に対する争いではなく、「許容」なのである。
さぁいくよ♡

 

カテゴリで争う人々

結局、私たちが属するマイノリティな世界というのは、
「世の中の少数派」なので、「社会の中での位置づけ・立ち位置」みたいな話題に敏感ですよね。

そして、「少数派なんだからカテゴライズをはっきりしようぜ派」と
「私は私なんだからカテゴライズなんていらねーよ派」に分かれるのです。

「私は女装だ!私はMtFだ!私はGIDだ!女装じゃない!」
「私は女装界隈の人間ではない!」
みたいな「カテゴリ主義者」
と、

「なんだかわからないけど、私は私だ!くだらないカテゴリなんてとっぱらちまえ!」
みたいな「反カテゴリ主義者」
に分かれるのですよ。

カテゴリ主義者からすれば、「私は女装子だ!!!」そして「君も女装子だ!」と思うことでも、
同じカテゴリ主義者の中でも「私は女装子ではないと思ってる人」からすれば「違うカテゴリだ!」と思い言い争いをするわけですよ。

そんな言い争いを見てる「反カテゴリ主義者」は「なーにくだらない争いしてんの?私は私でいーじゃん、カテゴリなんていらねーんだよそもそも」と
俯瞰位置から見てたりするわけです。

でもね、この一連の動きは「記号と個人」というフレームで
さらに高俯瞰位置から見れるのです。

落ち着こう♡!みんな正しいし、誰も間違ってない。
なのに、何を言い争いしてんの?まぁまぁまぁ!という話になのですよ( ;∀;)

それは、「記号と個人」フレームがあるからですね。
これを持っていれば、「カテゴライズ論争」などというくだらない争いは、この世から消えてなくなるのですよ。
そして、女装人のみならず、人類は人に優しくなれるはずなのです。

 

 

記号フレームを理解しよう!これはマイノリティな話題を扱う際に知っておかねばいけない。

これはLGBT系の話題や、マイノリティの話題を扱うときに、
絶対的におさえておくべきフレームですので、知らなかった方はこの際覚えちゃいましょう♡♡

結局、「女装子」とか「MtF」とか「女装男子」とか様々な概念を示す言葉というのは
「記号」に過ぎないのですよ。

 

記号って・・・?

記号というのは、レッテルとほぼ同義です。
まず具体的な例で、「記号フレーム」について理解するところから始めてみたいと思います!

 

 

ここで問題です。
これ、何ですか?

 

 

Woman(Native Female)
カステラ!

 

そうです、カステラです。
これはB社というお菓子屋さんのカステラなんですよ。

おそらくほとんどの人はこれを見て「カステラ」だと答えるのですよ。
みんながなんとなく意識してる「カステラとはこういうものだ」というイメージの
共通項がこの食べ物をイメージするのです。正解です。

しかし、私がこう言ったらどうします?

女装の女神K
私は福砂屋のカステラ以外はカステラだと認めない。
だから、この画像は福砂屋のカステラではないので、カステラではない。

 

いやいやいやいやwwwww知らんがなwwwwwとなりません?

この場合、

「多くの人が想像するカステラ(多数派が考えるカステラ)」と
「私が想像するカステラ・私が認めているカステラ(私個人が考えるカステラ)」
に違いがあるから、「多くの人はカステラだと思うのに、私はカステラではない」と主張しているのですよ。

こうなってます↓

「黄色くて、上が茶色くてスポンジっぽいお菓子→カステラである」
という多数派はそう思う「カステラ」が「記号としてのカステラ」
なのですよ。
さっき言った、

みんながなんとなく意識してる「カステラとはこういうものだ」というイメージの
共通項がこの食べ物をイメージするのです。

これがまさに「カステラという記号」なのですよ。

厳密には、人それぞれ今まで食べてきたカステラって全然違うでしょ?
カステラはB社でも、福砂屋でも、その他いろんな会社やお菓子屋さんで
売ってますから。

おそらく人によってはB社のカステラを食べたことがなくて、コンビニで売ってるカステラ
しか食べたことがなかったとしても、
おそらくカステラを食べたことがなくてテレビでしか見たことがなかったとしても、

多くの人は、このB社の写真を見ただけで「カステラだ」とわかるのです。
これが「記号」なのですよ。

でもさっき私が「私は福砂屋のカステラ以外はカステラだと認めないので、
このカステラはカステラではない」という主張をしましたが…

私だってこれが「カステラだ」ということはわかっているのですよ。
でも私の中では「カステラではない」となっているのです。

つまり、記号を個人の価値観・個人の考えまで深堀りしていくと、
その「記号としての概念」が崩れてしまうということがあるのです。

でも、「記号としての概念」は確実に存在するのですよ。
だって、「カステラ」と言われて想像する「カステラ」はだいたいみんな同じだから、
写真を見るだけでほとんどの人は「カステラだ」と答えるのですから。

でも、私の中では、写真のものは「カステラではない」のです。
でもだからといって、写真のカステラを「カステラではない!!!」と私が主張して、
写真のカステラを「カステラだ」と答えた人を「お前違うだろ!!!カステラではねーよ!」
とか言い出したら、おかしいでしょ?

・・・

結局、何が言いたいのかというと…


「記号としての概念は、確実に存在しているのですが、
そこに個人の価値観を付加すると、例外が発生してくるんです。
でもそれはあくまで個人の価値観として独立して存在しているので、
記号としての概念までは崩れることはない」ということなのですよ。
でも、個人は最大限尊重される。個人も正しいのである。

つまり、整理すると…

記号と個人とは?

記号:多くの人がそう思う共通の概念のようなもの
個人:「私が思う」概念

なので、時として「記号」と「個人」は一致しない場合がある。

とはいえ、個人の「私はこう思う」と「記号」が一致しなかったとしても、
「記号は記号としては正しく、個人も個人として正しい」のであり、
両方否定されるものではない。

あくまでこれは「考えの不一致」として両者とも否定されずに、処理されるべきなのである!

これをそっくりそのまま、女装界隈の話にたとえを変えてみようと思います。

 

 

考えの不一致に「マウントの取り合い」を行うから、争いが始まる。

たとえば、
私は、ネイティブ性別も戸籍上性別も「男性」です。
しかし「女装」をして「女」になりきっています。

多くの人はその時点で「女装男子」「女装子」という記号をたどって
私のことを「女装子」とか「女装男子」と思うのですよ。

でもたとえば私個人は「私はたしかにネイティブ性別は男性だけれど、
こころは女性なので”女装子”というカテゴリではない!されたくない!」
思っているとしたらどうでしょう?
こういうことが起こります。

はい、私個人は「女装子ではない」と思ってるのでそれはそれで〇なんですよ。
かといって、実際に概念として存在している「女装子」という記号は、
私とは独立した概念としてそのまま存在するのですよ。
なので記号としての「女装子」という多数派の考えも〇なんですよ。

 

ここで発生するのは「あなた方はそう思うのね!でも私は違う」という
「考え・価値の違い」だけであって、そこに否定は存在していないということが重要なのです。

だから、「カテゴライズ論争」において「言い争う」という事象が起こるのを見るたびに私は少し寂しい気持ちになります( ;∀;)

だって、どっちも正しいんだもの。
その上で”「あなたと私は違うんですね!」で終わりのはず”なんですよ。

だけど、そこに「あなたは間違ってる、私は正しい」という「マウントの取り合い」が始まり、
お互い理解するつもりのない者同士が「理解させる」という努力をするから、「言い争う」ことになるのですよ。

 

 

何やってんの?( ;∀;)
「みんなそれぞれ正しい」でいいじゃん。
だし説明した通り、実際そうじゃん。

 

 

そういう意味では、反カテゴリ主義者の「私は私なんだから、なんでもいいじゃん!」までは正しいのですよ。
とはいえ「カテゴリなんていらねえじゃん」は間違ってるわけですよ、記号という観点では。
だって「記号」は存在しているのですから。

 

論争というのは、「ある程度の定義の一致」等がなければ難しいのですよ。
そもそも「絶対に何を言われても理解するつもりがない”マウントを取りたい者同士”」が論戦をしたところで、
何も生まれないのですよ。生まれるのはストレスくらいなのですよ。

もちろん大切な友人や、家族等に説明するための「理解させる」は必要ですよ。
世の中に訴えるための「理解させる」は必要ですよ。
でもそれは「マウントの取り合い」ではないはずなのよ!

 

理解してもらいたい人にだけ、してもらえばいいじゃない。
顔もわからない人や、よくわからない人にまで
理解してもらう必要はそもそもないはずなのよ。

 

そして、「記号」があるからこそ、少数派は多数派に対して理解を促したり、
世の中に権利を主張できるのですよ。

記号もなくてはならない。

と同時に、個人も最大限尊重されるべきなのですよ。
「記号ではこうだけど、私は違う」
これも正しいじゃないですか。

なので、個人もなくてはならない。

要は、記号も個人も両方あっていい!

のですよ。

って話なのはご理解いただけましたでしょうか♡

 

 

人に優しくなろう。「赤いポストを白い」と言う人が表出してくるような時代を私たちは生きていくのだ。

「新時代のじゆう論」でも書いているのですが、人の価値観なんて
本当に10人いれば10通りあるのですよ。
完全に一致することなど絶対にないのです。

その上で、インターネットの出現で「これまではかき消されてきた声」も随分と
表面化するようになりました。

価値観錯綜時代に突入しているのですよ。

赤いポストを見て、「白い!!!」と言う人も可視化する

ような時代なのですよ。

そこで多くの人は心の中に「違うだろ」という否定を抱くのですが、
「違うだろ」はあくまで「個人が思う、違うだろ」なのですよ。

多くの人が「赤い」と近くする「赤」はすでに「記号」として存在しているのですよ。
でもごく一部の中から「いや、これは白だ。私はこれを赤だとは認めない」という声が
あってもいいわけです。

それが新時代の価値観錯綜時代なんですよ。
もうそんな時代なんです。

全く違う価値観が次々に目の前に表出してくる時代に、
いちいちマウントとってたらめんどくさいし、しんどいし、
それをやったところで「個人の価値観」は
法律と裁判所が決めた倫理以外は何人にも否定できないのですよ。

だから、マウントをとるのも、もちろん自由なのですが、
それやってるとしんどいよ?wwwって話なんですよね。

記号はある。そことは違う個人もある。
両方ok。そこに発生するのは「違い」だけ。記号も個人も尊重しよう!

その「尊重しよう」という心こそが人間の優しさなのである。
そして、理解できなければ迎合する必要もない。
「違うんですね!」で終わり。

争いで1つの多数派の価値を先鋭化する時代は終わった。
今は”許容で個人の価値を個人の世界で表現する時代”なのだ。
そこにつながる人、つながらない人。
ただ、それだけなのだ。

人に優しくなりましょう♡♡

 

っていうこの記事全体は・・・?

ただの私の考えです。絶対じゃないですよん♡

最後までお読みいただきありがとうございました。






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