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一般社会と女装

「寛容のパラドックス」はLGBTの権利を主張するなら絶対に知っておくべき概念である。



LGBTの権利の主張ってとっても大事なこと。
マイノリティの権利獲得、権利拡充は
私たち女装人たちにとっても間接的~直接的に
リンクしてきます。

でもたまに「主張しすぎ!」「やりすぎ!」
とかマジョリティからの批判にさらされてるのを目にします。

こんなカンジ↓

・マイノリティだからってなんでもありなわけ?

・差別はしないけど理解しない権利が
マジョリティにはある

・ホモセを理解しろっていわれても
できねぇもんはできねーよw

理解しないと差別ってなるでしょ
でも理解しないという自由もあるのでは?

こんなカンジで、

マイノリティの権利拡充=寛容さは称賛され認められて
=寛容に対する寛容さはあって
それに反対する意見はバッシングを受け差別主義者だと
レッテルを貼られがちな風潮。
=不寛容に対する寛容さがない

という議論がしばしば起こっています。

要は、

・認める=寛容

・認めない=不寛容

において、

寛容さに対する寛容はあって、
不寛容差に対する寛容はねぇじゃねえか!!!

という、
一部のマジョリティたちの悲鳴があるのです。

このような一部のマジョリティたちに、
自分たちの権利を主張するLGBTマイノリティたちは
なんて答える?

知っておこう。寛容のパラドックス。

 

 

寛容とは?不寛容とは?寛容のパラドックスを理解しよう!

寛容というのは、わかりやすくいえば「いいじゃん!OK!=認めるよ」ってこと。
不寛容というのは、わかりやすくいえば「ダメ!NO!=認めないよ」ってこと。

つまり、一部のマジョリティたちは、

・寛容であることを押し付けてくるな!不寛容である自由を認めろや!!

と言いたいわけです。

平たく言えば、LGBTなんてわかんねえし、
そんなもん認めろやって言われても理解できねえもんは認められねえんだよ!なんでそれを強制するんだよ!
ってこと。

でも一部のマイノリティたちは、

・これまでの不寛容な社会は私たちの自由を侵害、制限してきたではないか!

と言いたいわけです。
それもわかります。両方の正義がそれぞれその通りなんです。

たとえばこんなカンジ。↓

※あくまで一例

純女さん:こころが女でからだが男とかわからないし、
そんなので女子トイレ入られても困る。見た目男なんだったらうちら女子は心が女だろうが男は男って思っちゃうもん。

GIDさん:これは私の権利よ。

純女さん:やっぱ差別になるのね・・・でもうちらマジョリティだって、
GIDの概念すらそこまで知らないし、見た目が男性っぽければ、やっぱり「男性が女性用トイレに入ってきた」
ってビックリしちゃう。その精神的苦痛はどうなるわけ?

GIDさん:でもGIDである私は、こころは女性。社会も女性として扱うべきだし、GIDという概念は認められているわ。

これ、純女さん側を支持する方もいれば、GIDさん側を支持する方もいると思います。
だって、どっちも言ってることは正しいもの。

純女さん:女性用トイレに見た目が男性(あるいは近しい)方が入ってくる精神的苦痛を受けない権利はあるはずだ!

GIDさん:自分のこころの性別に従って女性用トイレを使う権利はあるはずだ!

この場合、
純女さん=不寛容の立場=認めない!
GIDさん=寛容の立場=認める!

ですよね。

そして、「寛容さ」というのは、
不寛容さに対する寛容(純女さんの意見もそうだよな!)
寛容さに対する寛容(GIDさんの意見もそうだよな!)を両方含んでいます。

でもそうなると、
おまえは一体どっちの意見に賛成なんだ!?!?!?
となるわけです。でもそうなっちゃうのもわかります。

だって、

<純女さんの意見(不寛容)に寛容な場合>
純女さんの意見を認めようとすると、=不寛容に対する寛容=不寛容
GIDさんの意見を認めないすることになるし・・・=寛容に対する不寛容=不寛容

かといって、

<GIDさんの意見(寛容)に寛容な場合>
GIDさんの意見を認めようとすると、=寛容に対する寛容=寛容
純女さんの意見を認めないことになるし・・・=不寛容に対する寛容=不寛容

って、どっちかに不寛容になっちゃうもの・・・。

わかります?

寛容ばっかりだと、結局寛容が不寛容を生んでしまっていますよね。

ほら↓

<純女さんの意見(不寛容)に寛容な場合>
純女さんの意見を認めようとすると、=不寛容に対する寛容=不寛容
GIDさんの意見を認めないすることになるし・・・=寛容に対する不寛容=不寛容

<GIDさんの意見(寛容)に寛容な場合>
GIDさんの意見を認めようとすると、=寛容に対する寛容=寛容
純女さんの意見を認めないことになるし・・・=不寛容に対する寛容=不寛容


どのパターンに寛容でも、
結局寛容がどちらかに不寛容を生んでしまってるわけです。これが寛容のパラドックスです。
パラドックスっていうのが逆説のこと。寛容ばかりだと、逆に不寛容を生んじゃうよってこと。

どっちの立場に寛容だとしても、絶対にどちらかには不寛容になってしまう。これが寛容のパラドックス。

結局、どっちを認めようが、認めないこと=不寛容を生んでしまうので、
「認める、認めない」の無限ループになっちゃうわけですよ。

でも、社会でマイノリティを語るうえでは、どこかで一定のルールや基準を持たなくちゃいけない。

認める認めない=寛容不寛容の無限ループに
何かの基準で終止符を打たなくちゃいけないわけです。

 

「寛容だけに寛容」な社会が一番バランスがいいのだ。

となると、
どこにバランスを持ってくるのがいいのだろう?
で、こんな図が落ちてたわけ。↓

女装の女神K
ポパー先生は、オーストリア出身イギリスの哲学者だよ!
エセ科学と科学を定義づけたリ、今回の「寛容と不寛容」を語ったりした
現在の社会を動かす考え方をいろいろと定義づけた偉大な人。私個人はJSミル先生の次くらいに尊敬してる人かな。

つまり、
何から何まで寛容=認める!となると、「それは認めない!=不寛容」まで認めて、
不寛容だらけの社会になって、結局寛容から始まった社会が不寛容だらけになっちまうじゃねえか!

だったら、
寛容の範囲を寛容だけに限定して、不寛容は寛容の範疇には含まないことにしよう!

そうすれば、
寛容だけが寛容なので、不寛容は生まれにくい!!!
生まれるとしても、寛容のパラドックスによる不寛容だけなので、
何もかもに寛容な社会よりもいいんじゃね?

つまり、不寛容には不寛容、寛容には寛容な社会がバランスがいい!!!

というのがポパーによって提唱されました。

だから、今、マイノリティの権利を認めて!=寛容には寛容な社会でしょ?
でも差別=不寛容には不寛容な社会でしょ?
何かを認めよう!という発言はポジティブな拡散をするけれど、差別的発言はネガティブな炎上をすることが多いじゃない。

これがまさに、
寛容だけに寛容、不寛容に不寛容な社会ってことなの。

だからさっきの純女さんとGIDさんの話に戻すと・・・

<純女さんの意見(不寛容)に寛容な場合>
純女さんの意見を認めようとすると、=不寛容に対する寛容=不寛容
GIDさんの意見を認めないすることになるし・・・=寛容に対する不寛容=不寛容

<GIDさんの意見(寛容)に寛容な場合>
GIDさんの意見を認めようとすると、=寛容に対する寛容=寛容
純女さんの意見を認めないことになるし・・・=不寛容に対する寛容=不寛容

「寛容だけに寛容」が社会においてバランスがいいんだから、
GIDさんの意見のほうが尊重されやすいってことなの。

 

 

私たちマイノリティの権利は一部のマジョリティの犠牲の上で成り立っているということを忘れちゃいけない

でもさ、一番最初に話した通り、寛容は不寛容を生むわけだから(寛容のパラドックス)寛容に寛容でも、結局一定の不寛容は生まれちゃうわけよ。
社会においてバランスがいいのは、寛容に対する寛容なんだから、GIDさんの意見だけ聞いてればいいじゃん!終了!
という態度でいいの?っていう話になるわけ。

これ、俯瞰してみると・・・

不寛容な立場が入れ替わってるだけなんですよね。

つまり、女性風呂にGIDさん(マイノリティ)が入れるっていうことを認めることは、
一部のそれをいやだと思う純女さん(マジョリティ)は苦痛を受けるよね。

でも、寛容だけに寛容な社会がバランスがいいわけ
だから、これはしょうがない・・・?

とはいえ、不寛容な立場の人を生み出しちゃうわけだから無視するわけにもいかない。
でもそうするとまた無限ループに入っちゃうよね・・・。

だったらやっぱり寛容だけに寛容なのが一番バランスがいい。
だから、やっぱりマイノリティの権利を認めるほうが
社会的にはバランスがいいわけです。これはゆるぎない事実。

でも、それだからといって、
マイノリティが寛容を獲得したことが当たり前だ!という態度は違うわけ。

だって、何回も言ってるけど、寛容は不寛容を生んでいるんだ。
でも、寛容だけに寛容な社会という原則のおかげで、その寛容さを獲得できてるんだ。

ということは、寛容は不寛容の犠牲の上に成り立っているということもできるんじゃない?

だからこそ、
寛容だけに寛容によって寛容を勝ち得た人々は、「私たちの権利は当たり前」という態度はおかしいわけ。

マイノリティの権利拡充は寛容だけに寛容な社会によって
勝ち得るべきものだし、素晴らしいこと。
私もマイノリティだから素直にうれしい。
でもそれは一部の人の不寛容の犠牲の上に成り立ってるということだけは忘れないでってこと。

つまり、トイレの例でいくと、

・GIDさん=マイノリティが女性トイレトイレに入ることを認めるのは寛容だけに寛容な社会においてはやはり認められるべき

・でも、それは一部の純女さん(=マジョリティ)の「やっぱりネイティブ男性が女性トイレに入ってくるのはいやだ」
という不寛容さを認めないという犠牲の上で成り立っているということ

なんです。

寛容に寛容な社会だから権利の拡充は胸を張って享受すればいいけど、
それは当たり前じゃないっていう態度は忘れないでねってことです♡

なので、これからは・・・

・マイノリティの権利拡大!!!
→おまえマイノリティの権利拡大ばっかうせえよおれたちマジョリティの権利もあるんだよ!!!認めない権利もあるんだよ!

ってなったら、

・寛容は大事です。でも不寛容にも寛容な社会は、結局不寛容な社会を生み出すので、
寛容だけに寛容な社会が一番バランスがいいんです!
結局、あなたがたの寛容に不寛容な態度も認めちゃうと、不寛容社会が結果的に完成しちゃうんですよ?
寛容への不寛容はあなたがたの首を絞めることにもなりかねません。
なので、私たちの権利拡大は認めていただきますが、それは当たり前ではないと思っています。
お互い、共存共栄できればいいですね♡

と答えましょう!

寛容のパラドックス、正義錯綜社会では今後、大注目される概念になりそうですね♡

「寛容不寛容」などの記事は私の一般媒体「新時代のじゆう論」でも連載中だよ♡






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